カテゴリー別アーカイブ: ブランドヒストリー

ブランドヒストリー/IWC


プロフェッショナル・ウォッチのエキスパート、IWC。

耐磁性や耐加重性にこだわった究極の航空時計や、超耐磁性時計、水深2000mに挑んだスーパーダイバーウオッチ。革新的な機構に挑戦し続ける、スイスの名門ブランド「インターナショナル・ウオッチ・カンパニー」。

1868年に創立し、高級スポーツ系モデルを得意とするブランドである。気品あるデザインセンスを保ちながら大胆で斬新なスタイルを追求する姿勢が、絶大な支持を得ている。

IWC創立125周年を記念して、伝説の復刻モデル「ポルトギーゼ」は登場した。ケース径41mm。1930年代半ば、その驚異的な大きさに圧倒され、世界中の時計ファンを魅了した。そして、後世に伝わる傑作品としての地位を確保している。IWCを代表する人気コレクション「GST」。ハードな環境下にも耐え得るスポーツウオッチとして人気を誇っている。
精緻なメカニズムを堪能できる究極のプロフェッショナル・ウオッチのエキスパート、それがIWCである。

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ブランドヒストリー/JAEGER-LECOULTRE


創業者のアントワーヌ・ルクルトが、スイスのル・サンティエにて1833年に創業した由緒ある時計メーカー。当初は時計部品の製造会社だったが、ルクルトは製造工程の改革に着手し、パーツの製造だけでなくムーブメントの製造も手掛け、1903年にカルティエの時計製造を行っていたエドモンド・ジャガーと事業提携。1937年社名を現在のジャガー・ルクルト社とする。

現在でもジャガー・ルクルトはネジ1本から自社で製造するスイス最大のマニファクチュール・ブランド。革ベルトかやガラスなどを除くほとんどのパーツを自社の工場で生産し、その自社生産比率は90%以上。この数字自体、スイス時計業界の中では群を抜いている。スイスの中でリアル・マニファクチュールと呼べる時計メーカーのひとつである。
2004年にはドイツの高級時計メーカー、ランゲ&ゾーネ社との共同開発によりヒゲゼンマイ、テンプの量産体制を確立した。徹底した品質管理でより信頼感を高めるため、外部の検定機関に頼らず、独自にクロノメーター検定以上に厳しいテスト、「マスターコントロール1000時間テスト」を行っている。(以前はマスターシリーズのみだったが2004製造商品からレベルソシリーズも対象となった。)

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ブランドヒストリー/ZENITH


時計史に名を残した偉人“ジョルジョ・ファーブル・ジャコ”

時計王国スイス ジュラ地方にあるル・ロックル。冬ともなると長く厳しい寒さゆえ、一切の世界から閉ざされてしまう。そんな人々の冬の副業として盛んになった時計産業。1865年、ここに新たな神話が生まれた。

ジョルジュ・ファーブル・ジャコ。未来を夢見る弱冠22歳の青年は、この地にゼニスという希望を描いた。スイスでもわずか数社となるムーブメントのマニファクチュール(自社一貫製造を行う時計メーカー)にジャコは、宇宙の頂点を意味するゼニスと名付け、創業以来この一貫製造につとめた。当時、スイスでも注目されていた機械化による大量生産システム。アメリカで始まった最新鋭の方式は、若き実業家ジャコがいち早く採用。創業からわずか10年あまりでル・ロックルの約10分の1の人口が働く大企業へと発展した。

ゼニスは時計界だけにとどまらず、電話ダイヤル、様々な機種のメーター類の開発、日本では1927年にゼニス鉄道時計が国鉄に採用されるなど、幅広い発展を遂げた。また、戦時中に供給したミリタリーウオッチの優秀性が評価され、スイス時計としての品質の高さを実証した。

そして1969年、長きにわたり手掛けてきたゼニス希代の名機“エル・プリメロ”を発表。ロレックスのデイトナに採用されるなど、その名は世界に轟いた。

近年では自慢のムーブメントを見てもらいたいと、ダイアルからムーブメントを覗かせた“クロノマスター・オープン”を製作発表。時計ファンなら誰もがくぎ付けになるであろう時計のメカニズムがいつでも楽しめるようになっている。

ジャコが夢見た宇宙の頂点に光り輝く星、「ゼニス」。幸運のシンボルは時を越え、未来も照らしている。

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ブランドヒストリー/AUDEMARS PIGUET


1875年、発明家ジュエール・オーデマと、財務専門家エドワール・ピゲの二人によって誕生したオーデマ・ピゲ。

創業以来、時計製作と販売の二極体制を抜群のコンビネーションで維持している。現在、会長はジョルジュ・アンリ・メイランとスティーブ・ウルクハートの二人。ジャガー・ルクルトやカルティエで経験を積み、その采配ぶりから“魔術師”と呼ばれるジョルジュは、ル・ブラージュの工場を管理。そして、スティーブ・ウルクハートがマーケティングと販売を担当する。まさにその関係は、かつてオーデマが非常に複雑な時計機構の特許を取得し、一方でピゲがそれを世界中に宣伝してまわった時代とまったく変わらない。経営権が創立者の家系以外の手に渡ることの少なくないスイス時計業界では、貴重な存在なのである。

―とはいえ、オーデマ・ピゲは、古い観念を誇りとしている会社ではない。例えば同社は生産に必要な部品の一部を他メーカーの供給があることを認めている。それは、組み立てと調整という過程にこそ、決定的な役割があり、小さな歯車の製造ではないと考えるからである。

今や世界でも有数の高級時計メーカーとなったオーデマ・ピゲ社だが、その名が最初から時計の文字盤に記されていたわけではなかった。創立当初、ロンドンやパリの有名時計店からの注文で時計を製作するほか、複雑機構を組み込んだムーブメントを供給することもあったという。そのため、今日でも自分が手にしている懐中時計がオーデマ・ピゲ製であることを知らないユーザーが多数いると考えられる。

今日を代表するオーデマ・ピゲのモデルのひとつに“ロイヤル・オーク”がある。今でこそスタンダードモデルとなるスポーツモデルだが、1972年の発売当初、高級なスポーツ・ウオッチという新しいラインは、時計界において革新的な発表であった。信頼と頑強の象徴である“ロイヤル・オーク”は、近年、伝統と技術を誇るオーデマ・ピゲ社のシンボルウォッチとして称される。

この他にも、同社は数多くの優れたモデルを有する。1985年に発表された416個の部品からなる超複雑時計。発表以来、現在までの生産数はわずかに20個ちかくと推定される。オーデマ・ピゲ社は、これ以外にも繊細な時計技術を駆使したモデルから、華麗な宝石を纏ったジュエリーコレクションに至るまで、大量生産とは無縁の精緻なコレクションにも着手している。

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ブランドヒストリー/BREGUET


18世紀の天才時計師アブラアン-ルイ・ブレゲ。

彼が残した偉大なる功績は今もなお継承され、その神話と名声は生き続けている。

1747年スイスのヌーシャルに生まれ、1823年に76年にわたる生涯をパリで過ごした。1775年にセーヌ河畔に、ひとりの時計師として工房を設けてスタートしたが、フランスは激動の時代であり、多くの困難に成長を妨げられた。しかし、誠実に生きぬいたひとりの天才は、技術的発明、芸術的創意のほか、社会的洞察力、経営的手腕など、あらゆる才能を発揮し、33才にしてフランスで最も知られる時計師となった。1783年には、王妃マリー・アントワネットの注文により、超複雑懐中時計「マリー・アントワネット」の制作に取りかかる。画期的な発明技術の集大成とも言える、その複雑にして美しいムーブメントを、スケルトンのダイアルで見せる最高傑作の複雑時計は、1802年についに完成するが、1789年のフランス革命により、王妃は断頭台の露となり、その美しい時計を見ることはなかった。

アブラアン-ルイ・ブレゲは、この世を去るまで約4000個の時計を作り、ブレゲひげゼンマイ、耐衝撃機構、ゴングスプリット方式のミニッツ・リピーター、スプリットセコンド、パーペチュアルカレンダーなどの機構に関わる発明からブレゲ・ポム・ハンドやブレゲ数字、ギョーシェ文字盤などのデザインまで、現代の時計技術の土台を作りあげた。時計の歴史を2世紀早めたといわれる天才時計師。彼なくしては、機械式時計の歴史は語れない。この多くの発明の中で最も重要なのが「トゥールビヨン」である。トゥールビヨンとはフランス語で「渦巻き」を意味する。機械式時計はその使用時、一定の重力を保っていることはできない。持ち主の姿勢が、時計の姿勢に影響を及ぼし、精度に微妙な影響を与える。つまり、ムーブメントにかかる重力の方向が変化する事による誤差が生じる。姿勢値誤差と呼ばれるこの障害を解消するのが、トゥールビヨンである。彼はこの機構を発明し、1801年6月フランス政府から特許を許可された。没する1823年までに制作・販売されたトゥールビヨンは35個にすぎない。決して多くないこの数字は、制作の困難さを表している。

2001年、ブレゲはトゥールビヨン発明200年を記念して、特許取得年をリファレンスNoにしたRef.1801を発表した。ギョーシェ彫りを施したハーフ・ハンターケース。ムーブメント・外装いずれも細部にいたる美しい仕上げは、トゥールビヨン発明を記念にふさわしいものである。

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ブランドヒストリー/A.LANGE & SOHNE


ドイツ最高峰の時計メーカーとして

ウオッチオークションの花形として名声を轟かせ、
常に時計愛好者からの熱い羨望の矛先であり続けるブランド、ランゲ&ゾーネ。


1845年。腕利きの時計師として、ザクセンの首都、ドレスデンで活躍していたフェルディナンド・アドルフ・ランゲが、ドレスデンの南に位置するグラスヒュッデに、高級時計の製作を中心とする工房を開いたのが現在のランゲ&ゾーネ社のはじまりである。

“貧しく閉鎖的であったグラスヒュッデに産業を興し、経済的な発展を遂げる”アドルフ・ランゲの社会的使命感は、農村の青年に時計製作の技術を教え込み、見事ザクセンにおける時計産業の中心地として大きな功績をおさめた。これがランゲ&ゾーネ社のはじまりである。しかし、時は第2次世界大戦、ドイツの東西分割。時代の悪流に飲み込まれ、1950年ランゲ社は東ドイツの国営企業グループへと吸収されてしまったのだった。

幾度の復活をかけたランゲ一族であったが、東西ドイツの壁に阻まれ、その計画は、ことごとく失敗。しかし、半ば諦めかけていた頃、東西ドイツの統一が、再建の夢を現実のものとした。
1990年、当時のランゲ家当主ウォルター・ランゲは、グラスヒュッデにランゲ・アンド・ゾーネ社を見事、再建させたのであった。
1994年には、約半世紀ぶりにランゲ・アンド・ゾーネの名が入った腕時計を世に送り出し、待望の復活を遂げたランゲ社は、約半世紀封印されていた職人魂を投入した、新たなる製品を次々に発表。
今や画期的なアウトサイズの日付表示を持つランゲ1や、フュージ装備を併せもつ、トゥールビヨンモデルといった、世界最高標準を求める製品作りと着実な技術開発に着手し続けている。

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ブランドヒストリー/VACHERON CONSTANTIN


現存する時計メーカーとしては世界最古の歴史を誇る、ヴァシュロン・コンスタンタンは、今から240余年前の1755年、スイス・ジュネーブに始まった。

創業者である、ジャン-マルク・ヴァシュロンは、“キャビノチェ”と呼ばれた時計職人のひとりであった。このキャビノチェという言葉は“キャビネット=屋根裏部屋”で時計作りをしていた職人たちを呼ぶが、キャビノチェとは単なる時計職人を指す呼称ではない。思想家ジャン・ジャック・ルソーもキャビノチェの家に生まれ「パリの時計職人は時計についてだけしか知らないが、ジュネーブの時計職人はあらゆることに自信を持って語る。」と語ったように、18世紀のジュネーブにおいて、時計製作に関わるすべての知識と技術を要することはもちろんのこと、科学、数学、哲学、歴史といった人文科学や芸術にも造詣の深い才人の集団であった。当時ジュネーブは4000人以上の時計職人がひしめくスイス時計生産のメッカだった。その中でも特に技術に優れた彼らの存在がなかったら「ジュネーブの時計」という特別な意味をもつ、高級時計は生まれ得なかっただろう。

ヴァシュロンの名にコンスタンタンが加わるのは1819年。3代目のジャック・バルテレミー・ヴァシュロンの時代。イタリアをはじめとする海外の販路に活路を見出し、友人である優秀なビジネスマン、フランソワ・コンスタンタンに大任を託した。ふたりの才覚は実を結び、ヴァシュロン・コンスタンタンへと改称を果たす。スイス時計産業に機械化をもたらしたという点でも、ヴァシュロン・コンスタンタンの功績は大きい。1837年には「近代時計産業の創設者」とも呼ばれる天才発明家ジョルギュ・オーギュスト・レショーの経営参画により、新たな繁栄を築いた。レショーの使命は部品製造の機械化であった。レショーは互換性のある部品を作るためのパンダグラフを開発し、均一の規格の部品を使ってムーブメントの組み立てを行うことに成功した。フランソワ・コンスタンタンが確立した「可能ならば最善を求めよ。そしてそれは常に可能である。」という企業理念により、高精度で美しい時計作りへと情熱を傾け、実現に向けて努力が続けられたのだった。

今もなお、2世紀半という時間の中で、不変の創造性を発揮し続け、最善を求めることを頑なに守り続ける、最古の名門時計メーカー。それがヴァシュロン・コンスタンタンである。

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ブランドヒストリー/JACOB&Co.


ニューヨーク発、セレブ御用達ブランド

1981年、NY。現社長であるジェイコブ・アラボ氏によって設立された「JACOB&Co.」。自らの天賦の才能によって開通したセレブ街道は、まさにアメリカンドリームのごとく開花。今やアーティストたちの“成功の証”とも称されるという。
ロシア育ちのジェイコブ氏は家族とともにアメリカ合衆国へ移民した後、16歳でジュエラーとしての天性の素質を磨くために、ジュエリー・デザイン学校へ入学。すぐにトップクラスでの学位を習得した。その後、若くにしてNYのダイヤモンド商がひしめく一角に小さな店を構え、すぐに複数の有名ブランドやプライベート顧客を相手にデザインを始める。そして1981年、「JACOB&Co.」自らの名を冠したジュエリーの販売をスタートした。

1990年、「JACOB&Co.」の運命を変える大事件が起こる―。
売り出し中であったR&Bシンガー、フェイス・エヴァンスが自身のCDジャケット用にジュエリーを探してふらっとジュエリー・ショップに立寄った。そのショップこそ、「JACOB&Co.」であったのだ。ジェイコブ&カンパニーの創作に魅せられてしまった彼女は後に、ノトーリアスB.I.G.としてラップアーティスト界で名を馳せた彼女の夫を連れてショップに舞い戻った。すっかり虜になってしまった二人はロイヤルカスタマーとなるだけでなく、彼らの著名な友人たちにもその素晴らしさを薦めてまわり、ジェイコブ&カンパニーはブラック・ミュージック界の大御所やハリウッドスターたちが競って愛用するほどのスター・ブランドへと上りつめていった。

“ジェイコブ・ザ・ジュエラー”。NYでカスタムジュエリーを作るなら「JACOB&Co.」とまでセレブたちから称されるようになったジェイコブ・アラボ氏。新分野への挑戦は、プライベートジェットで世界を飛び回るセレブのライフスタイルから着想を得た5カ国のローカルタイムを表示する“ファイブ・タイム・ゾーン・ウオッチ・コレクション”の開発であった。5つのクオーツムーブメントを搭載し、メインタイムのほかに、NY,LA,PARIS,TOKYOの4カ国のローカルタイムを表示。その日の気分によって付け替え可能なカラーベルト(ダイヤベゼルならプレーンベゼルも付く)も付随するなど、毎日楽しみながら選ぶことができる。流行に敏感なセレブを虜にする、新スタイルのジュエリー・ウオッチブランドである。

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ブランドヒストリー/IKEPOD


時計界に新風を吹き込んだ革新的なブランド。

ニュートラルな曲線美と官能的なデザイン。
オリジナリティを追求したモデルはすべて限定生産。


1994年に誕生した「アイクポッド」。若かりしブランドながら、創立の翌年には、バーゼルフェアで作品を初出展、衝撃的なデビューを飾り登場。今や世界40カ国以上の厳選された腕時計取扱店でしか販売されない、高級腕時計ブランドとして君臨する。

妥協を許さないケース仕上げ、信頼のC.O.S.C.規格ムーブメント

大部分のモデルを9999本の限定生産とするアイクポッド。その裏側には、徹底した品質管理が挙げられる。
アイクポッドの時計といえば、ネジ類を一切使用しないなめらかなラウンドケース、光り輝くポリッシュ仕上げ、繊細なヘアラインの仕上げなど、独創的なだけに妥協を許さない頑強なデザインが特徴的。さらにムーブメントには、クロノメーター認定の高精度機械式ムーブメントを搭載する。一般的な腕時計に比べ、製作工程がはるかに多く、熟練した時計職人の手作業を要するため、限られた生産数を余儀なくされる。

動物図鑑から参入した、ユニークなネーミング

へミポッド、マナティ、ポトルー。アイクポッドのモデル名はどれも絶滅寸前の鳥や発音の珍しい動物の名前が多い。
2003年のモデル「ポトルー」はアルファベット表記にすると「POTOROO」。「O」が4つもあるという、ユニークな演出。またその姿がリュウズに刻まれていたりするのである。
こうしたネーミングはすべて動物図鑑などから引用し、時計の商品名となっている。今やアイクポッドは究極のウオッチとして、世界中の腕時計愛好家たちを魅了している。

<Marc Newson マーク・ニューソン>
1963年オーストラリア・シドニー生まれ。アイクポッドのデザインをはじめ、家具、携帯電話、フオード社のコンセプトカーなど幅広い分野のインダストリアルデザイナーとして世界的に活躍する。

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ブランドヒストリー/CHOPARD


極寒の世界から生まれたブランド、ショパール

1860年-スイス・ジェラ山脈地方の村、ソンヴィエ。夏は短く、真冬ともなれば大地を覆う豪雪により、一切の世界から閉ざされてしまう。そんな冬の間、村の農民たちの副業として発展していたのが、時計作りであった。緻密な手作業を要する腕時計の世界。
高度な技術を身に付けた彼らの中からは、副業を本業とする者も少なくなかった。
フェリシアン・ショパール、彼もそのひとりであった。
そのころの時計作りといえば、メーカーからの部品供給によるものが主流であったため、エージェントであるメーカーに収益のほとんどを徴収され、副業分くらいにしかならない。この体制に疑問を抱いたフェリシアンの息子、ルイ・ユリス・ショパールが自らのイニシャルを掲げた時計工房“L.U.C”を開いたことからはじまる。

「最高の技で最高のものを作る」

1920年、ルイ・ユリスの孫、ポール・アンドレ・ショパールの手によって、ショパール本社はスイス・ジュネーブに移された。ちょうどその頃、ジュネーブが高級時計発祥の地として国際的に高い評価を獲得し始めていた。この移転により最高の時計作りをモットーとしていたショパールの時計は、さらなる人気を博し、世界中に公認されるブランドとして確立していった。

「訪れた大きな転機」

順調に発展を遂げてきたショパール。しかしながら、ポールの息子たちには、経営を継ぐ意思がまったくなかったため、ショパールの名を後世に残すには、ブランドの売却という道しか残されていなかった。1963年、名乗りを上げたドイツ・フォルツハイムのショイフレ一族がショパールを買収。
ジュエリーを主としていたショイフレブランドに、ショパール高精度時計のノウハウを集結させ、新生ショパールの基盤を作っていった。
美しく華やぐジュエリーウォッチ。自社開発ムーブメントを搭載する機械式時計。
ショパールウォッチに二面の顔があるのは、ショパール、ショイフレ一族のブランドを愛してやまない2つの魂が生き続けているからなのである。

「数々の文化・社会事業にも協賛」

ショパールは、数々の文化・社会事業に貢献していることでも有名である。 フランスで開催されるカンヌ映画祭でのトロフィーをはじめ、イタリア・ヴィンテージカーのレース、“ミッレミリア”を記念したモデルを手掛けるほか、社会事業としてチャリティモデルを発表。 その収益を財団へ寄付するなど、多くの慈善事業を展開する。

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